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[コラム]
上昌広の
「これでいいのか日本の医療」
第1回 世界からも遅れをとる「勤務医の残業時間」
4月、働き方改革関連法が施行された。多くの企業が「時間外労働の上限規制」や「年次有給休暇の取得義務付け」への対応を迫られている。
残業が常態化している医師の働き方をどうするか、医療界も議論を進めてきた。そして、「地域医を支える医療機関の勤務医」と「専門性や技術などを高めたい若手医師」の残業時間上限について、年間1860時間とすることで決着した。
これは常軌を逸している。毎日22時まで残業し、週に一度当直をこなし、翌日は通常通り勤務すると、この程度の残業時間となる。実質的に無制限だ。
厚労省の意図は想像がつく。今回、厚労省が根拠としたのは、2016年に井元清哉・東京大学医科学研究所教授らに依頼して実施した医師の勤務実態調査だ。この調査で年間の残業時間が1900時間を超えていたのは、約1割だった。本音は「現状を追認するための数合わせ(厚労省関係者)」だろう。
メディアは、厚労省が提案した残業時間の上限が、過労死の目安とされる「繁忙期で月に100時間未満、年960時間」を大きく上回ることを問題視している。もちろん、これは大きな問題だ。医師の健康や人権を守るためにも、何らかの規制が必要なことは言うまでもない。
ただ、医師の残業を規制しなければならない本当の理由は別にある。それは医療安全だ。わが国の議論の問題は患者視点が皆無であることだ。世界の議論から20年以上遅れている。
勤務時間短縮のきっかけとなった「米・誤投薬事件」
医師の労働時間についてはグローバル・スタンダードが確立している。議論のきっかけは1984年に米ニューヨークの病院で起こった誤投薬事件だ。少し長くなるがご紹介しよう。
この事件では、リビー・ジオンという18歳(当時)の女子大生が亡くなった。彼女はフェネルジンを服用していたが、発熱・ふるえ・脱水のため、両親に連れられて救急外来を受診した。
担当医はウイルス感染と考えたが、興奮状態で暴れたため、複数の治療薬とともにメペリジンを処方した。当初、治療が奏功したが、早朝に突然死した。
論点となったのは、リビーがフェネルジンや不法な薬物(主にコカイン)を使用していたことを担当となった研修医に告げなかった点と、研修医が薬物の相互作用を知っていたか否かという点だ。メペリジンはフェネルジンと相互作用があるため、併用してはならない。
リビーの父親であるシドニー・ジオン氏は元検察官で、有名なコラムニストだった。彼は病院に対して民事訴訟を起こし、大陪審に刑事事件として起訴するように働きかけた。
1986年、大陪審は議論の末、不起訴としたものの、薬のレファレンスシステム、コメディカルの人数、研修医の勤務時間などについて、病院体制に問題があると報告した。リビーが入院した際の担当医は、既に18時間以上働きっぱなしだった。
リビーの死亡から5年後の1989年、ニューヨーク州は病院のヒエラルヒーの最下層に位置し、もっとも長時間勤務を強いられやすい研修医の勤務時間を制限することを決めた。研修医の負担を軽減するため、2億ドルの予算を投入し、採血、点滴ルート確保、患者搬送などを行うコメディカルを増員した。この動きは全米に拡がり、2001年には法制化された。
しかしながら、このルールはあまり遵守されなかった。「コメディカル増員のため経費が増える」、「夜中も同じ研修医が同じ患者を診なくなる」といった反対意見が多かったからだ。しかしながら、それでも「患者を危険にさらしている」「市民の命でルーレットゲームをしている」といった声のほうが強く、睡眠不足の医師に診療される患者の恐怖物語が相次いで報道された。1999年、当直明けの医師が運転中に交通事故で亡くなる事件が起き、患者の安全のために医師の勤務時間短縮を求めることは社会的なコンセンサスとなった。
一連の議論は米国以外にも拡がり、様々な分野の専門家が参加した。その代表が1997年に豪アデレード大学の医師らが英科学誌『ネイチャー』に発表した「疲労、飲酒とパフォーマンスの低下」という論文だ。
この研究では40人の健康な被験者を無作為に二つの群に振り分けた。一つは28時間眠らない群、もう一つは30分ごとに10~15グラムのアルコールを摂取し、血中濃度が0.10%になるまで続ける群だ。いずれの群に対しても、30分ごとに認知能力を評価するテストを行った。
結果は興味深いものだった。被験者の認知能力は睡眠をとらないのが13時間を超えるあたりから低下し始め、17時間を超えると「ほろ酔い状態(血中アルコール濃度0.05~0.10%)」、24時間を超えると「初期酩酊状態(血中アルコール濃度0.11~0.15%)」と同レベルになった。これはビールを大瓶で2~3本飲んだときとほぼ同じだ。
道路交通法で酒気帯びの呼気中アルコール濃度は0.15mg/Lで、血中濃度は0.03%程度だ。「初期酩酊状態」は「酒酔い」と判断され、5年以下の懲役か100万円以下の罰金が科される。人身事故を起こせば、危険運転致死傷罪に問われる。
日本では年間1860時間の残業が認められる。このような残業をこなす医師は、当直明けも通常業務をこなす。「初期酩酊状態」で診療していることになる。患者は、このような事実を認識しているのだろうか。
患者視点で見直すべき「医師の働き方」
医師の本分は判断で、単純作業の繰り返しではない。集中力が問われる頭脳労働だ。長時間勤務による疲労は集中力を低下させ、ミスを起こしやすくなる。リビー・ジオン事件で問われたのは、まさにこの点だった。
弊害は医療ミスに限らない。医師が頭脳労働である以上、長時間勤務が常態化すれば生産性は下がる。つまり、医療ミスとまでは言えないが、ベストとは言えない診断や治療が増える。これは患者にとって不幸だ。
こんなことが横行している先進国は日本くらいだ。日本では最大1860時間、つまり週平均76時間の勤務が認められている。米国では最大で週80時間以内、EUでは週平均48時間以内に規制されている。日本が、いかに異様かお分かりいただけるだろう。医師の働き方改革は患者視点で見直すべきである。
(勤務医LETTER No.143 2019年5月)