陶器店の4代目として育ち、予備校講師として働き、そして医師になる
私は北区の天神橋3丁目商店街で荒木陶器店の4代目として育ちました。幼少期は陶器店を継ぐものと思っておりましたが、大阪府立北野高校から京都大学理学部に進学し、いつの間か大学受験の予備校講師になっておりました。大学受験時にお世話になった宮田敏美先生が主宰しておられた「理数研セミナー」で数学講師として勤務しながら、大手予備校では物理を教えておりました。論理的思考や発想の転換といった考え方の基本は理数研セミナーで学び、そして教えるという過程で築かれたものだと思います。
ちょうどその頃に父の歩行障害が進行性に悪化し、神経難病と診断されました。治療を試みましたが効果に乏しく、医師からの説明を聞いてもよく理解できず、自らの無力さを痛感させられました。そんなときに奇跡的な出会いがありました。当時大阪府医師会で理事をしておられた松原謙二先生が「いまからでも医学を志すのは遅くはない」と私の背中を押してくださいました。私は一念発起し、大阪大学医学部に再入学、予備校講師として働きながら、無事に医師免許を取得しました。初期研修2年目、父は胃軸捻転症というこれまた成人では稀な疾患を契機に急変し、研修先の病院で最期を迎えました。医学への思いが崩れかけた瞬間でしたが、その思いが消えることはなく、翌年からは市立豊中病院で神経内科医として勤務し、そこで私の神経内科医としての基礎を確立させることができました。5年目に私は大学院生として大阪大学に戻り、その年に着任された望月秀樹教授からの「君は物理が得意なのだから、物理と医学を融合した研究をするのがよい」との鶴の一声で、パーキンソン病患者の脳内に蓄積する直径約10μmのレビー小体の微細構造解析を兵庫県の西播磨にあるSPring-8で始めることになりました。類を見ない研究であったために難航しましたが、試行錯誤の末、なんとかいくつかの研究成果を論文発表することができました。私の神経難病に対する思いに一区切りがついたと考えた私は、次はこれまで培ってきた能力や医学的知識を生まれ育った地元に還元したいと強く思うようになり、陶器店を営んでいた場所を譲り受け、あらきクリニックを開院するに至りました。
医療の標準化が進み、医師の仕事が人工知能に取って代わられようとし始めておりますが、クリニックを受診される患者様の症状は様々であり、ありふれたパターンには当てはまらないことも多いと感じています。とくに神経疾患はその診断法も治療法も十分には確立していないものが多いです。私は「患者様の生き方をサポートする」をモットーに、患者様とともに「考える医療」を提供していきたいと考えております。
皆様にご愛顧頂き100年以上続いた陶器店を超えられる日を目指して。