第6回(最終回) 温故知新 明治維新の背後にあった大英帝国のアヘンマネー
多くの日本人は明治維新を、薩長の若者が中心となって江戸幕府に終止符を打って、欧米列強の植民地化から日本を救った美談と捉えているのではないでしょうか。最終回では明治維新の本質に迫り、今後私たちがどう行動すべきかを示したいと思います。
19世紀に世界を席巻していた大英帝国は、清国から茶と陶磁器・絹を輸入、インドで栽培したアヘンを清国へ輸出する「三角貿易」で巨利を貪っていました。1840年に第一次アヘン戦争が勃発した当時、英国のジャーディン・マセソン商会がアヘン輸出の主役を担っていましたが、清国のアヘン輸出禁止令に対抗するために英国議会にロビー活動を行い、大英帝国艦隊を清に展開させた張本人こそこの商会でした。
1853年に黒船が浦賀に現れて日本は幕末のドラマに突入しますが、長崎のグラバー商会こそアヘン貿易で巨万の富を得たジャーディン・マセソン商会が日本に作った代理店でした。グラバーが坂本龍馬を介して武器販売を行い、1866年の薩長同盟を支えて倒幕に大きな影響を与えたことは歴史的事実です。
1868年に江戸城が無血解放されると、維新政府は1872年(明治4年)から1年10ヶ月に渡り岩倉使節団を欧米に派遣します。メンバーは木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通ら「薩長中心の使節46名」が中心でしたが、海外情報の入手が困難な時代に見聞を広めたメンバーが、その後維新政府の中枢で活躍したのは当然の結果でした。
初代内閣総理大臣となった伊藤博文は同使節団の一員でしたが、さらにジャーディン・マセソン商会からも大きな影響を受けていました。1863年維新5年前に、長州は5人の若者を英国に留学させましたが、この面倒をみたのもグラバーとジャーディン・マセソン商会だったのです。英語も満足にできぬ20代の若者が、一生涯英国に恩義を感じたことは想像に難くありません。
さて明治維新当時にも民主主義に通じる「四民平等」を目指していた人々がいました。それは坂本龍馬、日本司法の父とされる佐賀藩出身の江藤新平、そして薩摩の西郷隆盛ですが、いずれも不幸な運命をたどっています。龍馬は大政奉還の1ヶ月後に「京都土佐藩邸目前の近江屋」で中岡慎太郎との会談中に暗殺され、司法卿の江藤新平は井上馨大蔵省長官の尾去沢鉱山私物化問題を追求して政府を追われ佐賀の乱で1874年(明治7年)に処刑されました。西郷隆盛も征韓論の論争に敗れて下野を余儀なくされ、西南戦争で1877年(明治10年)に自刃に追い込まれています。これら四民平等を訴える人々を粛清した後の維新政府の歴代内閣総理大臣が当初は長州と薩摩、その後長州の1人勝ちとなったことは第4回で紹介した通りです。
学校の歴史では教えられませんでしたが、明治維新は英国のアヘンマネーを背景に薩長の下級武士が皇室を「錦の御旗」に政治利用して徳川から政権を奪取したクーデターでした。そしてこの体制は、戦後は「錦の御旗」を「皇室から米国」に変えて今も続いています。最近大きな話題になっている大阪のM幼稚園に対する不透明な国有地払い下げのルーツにも、維新以来続くクレプトクラシー(収奪・盗賊政治)があると考えれば納得です。
まさに温故知新、国民が日本政府のルーツを直視して政治を抜本的に変える努力をしなければ、医療や社会保障充実は百年河清を待つが如し。哀しいですがそれが日本の現実です。