第5回 温故知新 明治に維新政府の問題を指摘していた人々

 前回は日本のクレプトクラシー(収奪・盗賊政治)と官尊民卑のルーツが明治維新にあったことを、明治の内閣総理大臣が当初は薩長が、後半は長州が独占していたことから明らかにしました。今回は渋沢栄一以外に明治政府の問題を指摘していた人々を紹介したいと思います。

1、明治天皇

 私が26年間勤務した済生会栗橋病院は、明治天皇が「済生勅語」を下されて明治44(1911)年に設立された「社会福祉法人恩賜財団済生会」に所属していました。

「済生勅語」の大意

 私が思うには、世界の大勢に応じて国運の発展を急ぐのはよいが、我が国の経済の状況は大きく変化し、そのため、国民の中には方向をあやまるものもある。
 政治にあずかるものは人心の動揺を十分考慮して対策を講じ、国民生活の健全な発達を遂げさせるべきであろう。また、もし国民の中に、生活に困窮して医療を求めることもできず、天寿を全うできないものがあるとすれば、それは私が最も心を痛めるところである。これらの人たちに薬を与え、医療を施して生命を救う──済生の道を広めたいと思う。その資金として、ここに手元金を提供するが、総理大臣は私の意をくみとって措置し、永くこれを国民が活用できるよう希望するものである。
 済生勅語が発せられた明治44年当時は第二次桂太郎内閣でしたが、維新政府が欧米列強に伍するため富国強兵策を進め、日清・日露戦争で勝利したものの多くの国民が貧困に苦しんでいた時代でした。明治天皇が政治をあずかるものに対して「国民の中には方向をあやまるものもある」と苦言を呈していたことは、渋沢の苦言と一致する重要な歴史的事実です。

2、ホセ・マルティ(キューバ)

 経済大国にもかかわらず先進国最低の医師数や医療費に抑制されている日本で医療再生を訴えてきた私にとって、1959年の革命以来過酷な米国の経済制裁下でも医療や教育を無償で提供するキューバは憧れの国でした。
 2013年11月と2015年3月の2度キューバ医療視察に参加した際に、その名前を冠したホセ・マルティ国際空港やキューバ革命広場の像で、革命の使徒ホセ・マルティ(1853年1月18日~1895年5月19日)の存在を知りました。
 マルティはスペイン帝国を相手に闘った第二次キューバ独立戦争(1895年~1898年)で戦闘中に亡くなった思想家で、1959年にキューバ革命を果たしたフィデル・カストロやエルネスト(チェ)・ゲバラらに多大な影響を与えた偉人として現在でもキューバ国民から尊敬を集めています。
 革命の精神的主柱となったマルティに興味を持った私は帰国後「椰子より高く正義をかかげよ ホセ・マルティの思想と生涯」(海風書房)を手にして、その序文にマルティが明治維新以降の日本をどう見ていたかを記載した一文を発見しました。

以下、同序文より

 (マルティは)ベネズエラの読者にもこう書いている。「近代生活は、激しくきらびやかに、日本にどっと入り込んでいる」。これは、多くの人々が観察した事実が証明しているところであるが、彼は「激しくきらびやかに」と述べるにあたって、それを反語的に紹介しているのである。(中略)
 天皇が「皇室内の金の彫像であり、目に見えない神」であったとき、首相や取り巻きが国の収入や運命を手中にして、自分たちの高い身分の保障と利益のために、国民を無知と貧困の状態に置いていたのである。

 マルティが指摘した「首相や取り巻き」とは、渋沢や明治天皇が嘆いていた維新政府の中枢を占める人々と政商であったに違いありません。遠くアメリカ大陸にいたホセ・マルティに、明治維新政府の実態が喝破されていたことは驚くばかり、まさに温故知新です。

 次回はいよいよ本連載の最終回、明治維新の陰に大英帝国のアヘンマネーがあったことを紹介して筆を擱きたいと思います。