第1回 「お上」は悪いようにするはずがない?

 還暦を迎えたのを期に昨年3月で外科医を引退し、医療再生の講演に加えて、オール埼玉総行動副実行委員長として戦争法反対の活動等に全力を投じています。
 私がこの道に進んだきっかけは、1915年大分県生まれで1939年東京帝国大学医学部卒、1959年長崎大学第1内科教授、1981年から光輝病院院長等を務められた高岡善人先生との出会いにありました(図1)。先生は一般病院院長として日本の医療の危機的状況に愕然とされて、1993年に「病院が消える、苦悩する医者の告白」(講談社)を上梓されていたのです。
 それから13年後の2006年2月に高岡先生から一通のファックスが届きました。2002年から医師不足や低医療費の問題について新聞やテレビ等で訴えていた私の姿が先生の目に止まっていたのです。いくらメディアで訴えても医療再生の機運が盛り上がらない現状に限界を感じていた私は「喜んで医療に対する90歳の遺言を申し上げたい気持ちを持っています」というFAX冒頭の書き出しを見て早速お宅に駆けつけました。

 高岡先生は、敗戦直後は東大病院内科に勤務し本郷に健康管理センターを立ち上げ三島由紀夫が大蔵省に入省した時に身体検査を担当したこと、さらに戦後の厚生行政の問題について詳しく話してくださいました。その中でも特に驚いたのは次の二つの話でした。

『最も優秀な学生は厚生省に入らない?』

 戦後の東大生は全国で一番結核患者が多かった。ある時結核で長期入院している成績優秀な法学部の学生に将来の進路を尋ねると「これだけ長く休んでいれば大蔵省や外務省には入れないから民間に行きます」と答えた。優秀な生徒は厚生省や文部省を選ばない。

 日本一優秀とされている東大法学部のトップクラスの将来の進路には厚生省も文部省も入っていなかったのです。弘前大学卒の私には想像もできないヒエラルキー(階層)が省庁間に存在し、その結果日本の医療費は先進国最低に抑制されてきたのです。
 そういえば東大卒の評論家の立花隆氏も、日本の官僚は戦前戦中の陸海軍と全く変わらず、いつ卒業し・成績は何番目だったかという「年次・席次」が一生昇進や地位に影響すると苦言を呈しています。

『厚生省では医療費抑制したら偉くなれる?』

 「このまま医療費が増え続ければ国家がつぶれるという発想さえ出ている。これは仮に「医療費亡国論」と称しておこう」と厚生省保健局長の吉村仁氏は「医療費をめぐる情勢と対応に関する私の考え方」(1983年3月社会保険旬報)という論文で主張した。日本の医療費削減の方向性を決定づけた吉村氏は省内で強大な力を持っていて、厚生省に入省した自分の後輩(東大卒)が北海道に左遷されるほどだった。(図2)

 1989年に東京女子医大から栗橋病院に赴任して、地域医療の現場で医師不足を実感し、1998年発足の医療制度研究会で日本の低医療費と医師不足に驚愕した私ですが、それまでは医師として真面目に働いていれば、まさか「お上」が悪いようにするはずがないと信じていました。ところが肝心要の厚生官僚が「医療費亡国論」を主導していたのです。

 受験戦争の勝者が年次席次で財務省に入省し、厚生官僚はより良い医療よりも、財務省の意向に添う安上がりの医療を追求せざるをえない。これでは厚労省で医系技官がどれだけ頑張っても、医療再生は困難なはずです。「医療費亡国論」で先進国最低となった医療費と医師数、逆に先進国一の窓口自己負担を改善するためには、国民と連帯を図ることが必要最低条件と悟った瞬間でした。