なぜ、どうして、どうなった

まゆみクリニック(天王寺区)
中澤まゆみ

 今は昔、浅間山荘事件をテレビで見ながら勉強し、東大紛争の時に大学に入学した。外科医になりたかった。だから、大学時代は病理学教室に入り浸っていた。一度は外科医になったが、内科のジェネラリストのすばらしさに惹かれ、内科医を目指すようになった。現在は、人生の半分以上内科医をしている。

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開業は運命的であった。一人っ子で、子供もない、好きな旅行をするために、開業をするつもりは全くなかった。ところが、アルバイト先の老院長に承継者がいなくて打診を受けた。しかし、娘さんのつける条件に合わず、当方にもそのつもりもなく、とうとう閉院となった時、患者さんから「止めないで」(「辞めないで」だと思った)、「何なら場所を提供する」とまで言われ、しぶしぶ近隣を探したが適当な物件はなかった。ところが、閉院1ヶ月前に、倉庫だった所の空きを見つけてしまった。仕方がなかった。私は結局、スタッフドクターではなかったのに、バイト先医院の閉院と同時に開院することになった。すでに、全ての患者さんの紹介状は書き終えていたが、まさか自分宛に紹介状を書くとは思ってもいなかった。

患者の想いを受けて開業を決めたが、正直言って、それなりの自由とそれ故の責任を持っていたパートドクター時代と、一つの所に括り付けられるような開業医の不自由さを我慢できるのか、という問いに答えが出ぬまま進んでいった。

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レセプトは手書きで、前の医院のスタッフがそのまま残ってくれた。患者を引き継いだので最初から200枚ほどのレセプトがあり、金銭的には老院長に感謝した。あっという間に半年が過ぎた頃、友人から言われていた事が現実になった。スタッフの1人が辞め、いくらかのお金が無くなっていた。退職金だと思うことにした。代わりのスタッフは、何人となくハローワークから面接にやって来たが、定着するには時間がかかった。およそ開業に当たっての問題は、「お金」ではなく「人」であった。そうこうして10年を重ね、概ねどこにでも起こるような問題が全て出尽くしたようだった。

トラブルでもいろいろ経験した。当院はテナントなので、隣の店の臭気の問題でビル管理会社と闘ったこともあった。この時は本当に保険医協会にお世話になった。親身な対応に入会していて良かったと思った。

クレーマーも次々に来院した。女ばかりのクリニックなので、私以外の波除けはなく、全員が私の後ろに回り込む形になる。仕方なく法律を学ぶことに力を注いだ。おかげで司法試験も受けてみたが、残念ながらあと20点のところでバッジはもらえなかった。医者がいかに井の中の蛙なのかがよく分かった。今もその知識を活かすことができている。クレーマーには毅然とした態度で臨み、相手の目的を推察し、時には警察にもお願いしてきた。
病診連携も、最初は少しギクシャクしたものの、今はすっかり有名になり(その善悪は不明だが)、しっかり受け入れてもらえるようになった。昔、大学のスタッフドクターだった頃、近医が手を焼いて「もう診ない」と送られてくる患者さんが多かった。開業してから私は、それは避けようと思っていた。「とにかく入院させろ」というのではなく、ある程度以上の診断と根拠のある入院をお願いするように心掛けると、自ずと信頼関係が構築された。当方も入院中の患者さんを診に行くと、主治医との関係もよくなり、退院後のフォローもしやすくなった。

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開業して驚いたことは、郵便物の多さである。毎日毎日よくこれだけ来るなと思うほど来る。新聞など読んでいる暇はない。公的書類の返信に大わらわである。勤務医時代に患者さんと病気の事だけを考えていた頃が懐かしく、「忙しい」とか「給料が低い」と文句を言う先があったことに感謝する。今は言われる側となり、ありとあらゆることを受け止めて対処しなくてはならない。院長、事務長、用務員兼務である。これも内科のジェネラリストに通じるかもしれない。
当初は、患者さんに「もう良くなったから、好きな事をしてください。病院へは来なくてもいいから」と言えないので、その苦しさから胃カメラ屋になったのに、今では脳腫瘍から水虫まで診ている。何でも勉強だ。

開業を希望される先生には、自己実現のために、何を、いつ、どうしたらいいのかをお考えいただきたい。開業が現実からの逃避にならないために。そして精一杯、自分の選んだ道程を愉しんでもらいたいと思う。苦しいことも、楽しいことも愉しんで、それ全てが人生だもの。

[勤務医ニュースNo. 120:2014年9月12日号に掲載]